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千葉地方裁判所 平成5年(わ)1100号 判決 1995年7月26日

主文

被告人は無罪。

理由

第一  訴因変更後の公訴事実

被告人は、平成四年一〇月一二日午後一一時五三分ころ、業務として大型貨物自動車を運転し、千葉県八千代市大字村上三七九三番地先道路を、柏市方面から千葉市方面に向かい時速約六五キロメートルで進行するにあたり、当時、降雨のため前方の見通しが悪かったのであるから、最高制限速度(五〇キロメートル毎時)を遵守するのはもとより、適宜減速した上、前方左右を注視して進路の安全を確認しつつ進行すべき業務上の注意義務があるのにこれを怠り、第二車線から第一車線に進路変更するため左後方に気を取られて前方注視不十分のまま漫然と前記高速度で進行した過失により、折から進路前方を右方から左方に横断中のA(当時八八歳)を約一四・一メートル前方に初めて発見し、急制動の措置を講じたが間に合わず、自車前部を同人に衝突させて路上に転倒させ、よって、同人に脳挫創等の傷害を負わせ、そのころ同所において、同人を右傷害により死亡するに至らしめたものである(変更前の訴因は被告人の進行速度を時速約八〇キロメートルとするもの)。

第二  前提事実

被告人の公判供述、検察官調書及び警察官調書二通、警察官作成の捜査報告書三通(甲1及び2は不同意部分を除く)及び実況見分調書四通、医師作成の死体検案書並びに証人B及び同Cの各証言によれば、次の事実が認められる。

一  被告人は、公訴事実記載の日時場所で大型貨物自動車(最大積載量九五〇〇キログラム、自重一〇二一〇キログラム、日用雑貨等四トンくらいを積載。以下「被告人車両」という。)を運転中、同所を歩行中のA(以下「被害者」という。)に自車前部を衝突させて同人を路上に転倒させ、公訴事実記載のとおり、同人に傷害を負わせて死亡させた。

二  現場道路は、柏市方面から千葉市方面に通ずる国道一六号線である。別紙交通事故現場見取図(実況見分調書甲7の図面をもとに作成)のとおり、片側二車線、車道総幅員一六・八メートル(縁石分含む)で、その両外側には縁石により区別された幅員二・二メートルの歩道が、道路中央には幅一メートルのコンクリート製中央分離帯が設けられている。最高速度は時速五〇キロメートルに制限されている。アスファルト舗装でほぼ平坦である。ほぼ直線で見通しを妨げるものはない。

周囲の施設等は、被告人車両進行車線側は、手前交差点から事故現場の数十メートル手前まで自動車展示場、自動車ショップ、工場があるが、その先は二〇〇メートル先のガソリンスタンドまでほぼ畑になっている。反対車線側は、手前交差点から事故現場までみるべきものはなく、現場から先は自動車販売店、ガソリンスタンド、パチンコ店が続いている(別紙横断施設設置状況図(捜査報告書、甲8添付)参照)。現場道路は街灯設備がなく、深夜である本件当時は薄暗い状況であった。

横断施設は、被告人車両の進行方向からみて事故現場の手前(柏市側)約二〇〇メートルに交差点と横断歩道が、事故現場の先(千葉市側)約二〇〇メートル先に歩道橋がある。現場道路に横断禁止の規制はない。

三  本件事故当時(午後一一時五三分ころ)は、雨、少なくとも小雨が降っていて、路面は濡れており、運転にはワイパーをかける必要があったが、霧やもやはなかった(被告人は公判において、タイヤが水しぶきを上げる程の雨だったと供述するが、証人C及びBの証言からすると、激しい降雨であったとは認められない。)。自動車の交通量は比較的閑散としていた。

四  被害者は、年齢八八歳の男性で、身長約一六〇センチメートルである。事故当時は、かなり暗い色の茶色ジャンパー、青色ジャージズボンを着用し、黒い傘をさしていた。

第三  事故の状況

一  被告人が衝突の際に急ブレーキをかけたこと、被告人車両が第一車線で被害者に衝突したこと、被害者は衝突直前に被告人進行方向の向かって右から左に進行し、衝突時は立った状態であったことは、被告人の供述のほか、スリップ痕、被害者が倒れていた位置、被告人車両の損傷、そして、事故直前にタクシーを運転して対向車線を通過し、その際被害者の姿を目撃した証人Cの証言により明らかである。

二  被告人が急ブレーキをかける直前の速度は、スリップ痕、被害者の転倒位置等に基づく鑑定人大慈弥雅弘作成の鑑定書のとおり時速約六五キロメートルであったと認められる。時速約六〇キロメートルであるとする被告人の公判供述は具体的な根拠に乏しく採用できない。

三  衝突前の運転経過について、被告人は捜査段階では概ね次のように供述している(別紙交通事故現場見取図による説明)。すなわち、前照灯を下向きにして、第二車線を進行していたところ、<1>地点で対向車のライトが眩しかったため、第一車線に車線変更しようとして、左後方を確認の上、ハンドルを左に切った。<2>’地点でア’地点に黒い影のような物を認めたが、ゴミか何かだろうと思いブレーキはかけなかった。その後、<2>地点でア地点に動いたのが見えて人間と分かり、危険を感じて急ブレーキをかけたが、<3>地点で×地点の被害者と衝突した。

公判供述もほぼ同様であるが「ゴミのような物」というのは例えで言ったもので、黒い影のようで丸くゆらゆらしていて低い位置だったとするほか、<1>地点はハンドルを切り始めた地点であって、車線変更しようと思ったのはそれ以前であること、<2>’地点のときの相手の位置及び衝突地点は更に数メートル先であること、相手が人間であると分かったのは衝突地点の一メートル以内であることなどが異なっている。

実況見分において被告人が指示した各地点の位置及び距離関係等は、別紙交通事故現場見取図記載のとおりである。

四  被告人の右供述につき客観的な裏付けとなる資料は乏しいが、これを覆す資料もないので、以下この供述を一応の前提として検討を進める。

なお、衝突地点については、事故直後の実況見分によって認められた現場の痕跡によっても、捜査段階の供述のように×地点であると断定できる訳ではないが、被告人が公判廷で実況見分調書の図面上に指示した地点よりも、事故直後に現場で指示した地点の方が信用性が高いと考えられるので、×地点を衝突地点とする。

第四  被告人の過失の有無

一  前方注視義務違反について

被告人の前方注視義務違反を肯定するためには、被告人が被害者を発見、認知することが可能で、被告人に回避措置を期待できる地点において、当該措置をとったとすれば衝突が回避できたと認められることが必要である。

1  被害者の発見、認知が可能な地点

事故当夜の被告人車両の照射実験によると、本件当時のように前照灯を下向きにした場合の視認可能距離は、右前方一七・三メートル、左前方二二・八メートル(なお、上向きにした場合は右前方六六・八メートル、左前方七四・五メートル)とされている。この実験は、現場で雨が上がった後に、停止中の被告人車両の運転席に座った被告人が、前方に立っている警察官(紺色制服)が見えたところで合図をするという方法で行われたものである(実況見分調書(甲6)、証人Bの証言、被告人の公判供述)。

ところで、右の数値は、「道路運送車両の保安基準」(昭和二六年運輸省令第六七号)が、前照灯の性能について、下向きの場合には夜間前方四〇メートルの距離にある障害物を確認できることと定めていること(三二条二項三号)と対比すると、かなり低い値になっている。被告人の公判供述からは、被告人が警察官の姿がはっきり見えてからようやく合図をしたことが窺われないでもない。また、被告人は<2>’地点から、二七・四メートル前方のア’地点の被害者を、「黒い影」のような物とはいえ、一応発見したというのであるから、右距離程度は照射が達していた可能性もある。こうした点からすると、被告人車両からの視認可能距離は、前記実験結果よりも長かったのではないかという疑いはある。

しかし、これも疑いの域を出るものではなく、右実験結果のほかに具体的に視認可能距離を明らかにしうる証拠、事実は存在しない(<2>地点についての被告人の供述も、人間(かもしれない)と認知できる地点の根拠にはならない。)。また、事故当時は雨が降っていて、被害者は暗っぽい服装で黒い傘をさしていたという事情があり(現場に落ちていた白い帽子を被っていたとしても、傘で隠れていた可能性が高い。)、他方、被害者がはっきりした動きをしていたという証拠がある訳でもない。そうすると、単に被告人車両から被害者の存在を感知できるばかりでなく、これを人間(かもしれない)と認知して危険を感じ、回避措置に出ることが可能な距離としては、右実験結果による距離を認めるのが限度である。

そして、右実験結果には左右差があるが、被告人車両が第二車線から第一車線への車線変更を終えるころであったこと、被害者が右から左に動いてきたことからすると、この距離は、右実験結果の右寄りの値、すなわち、被害者の前方一七・三メートルからせいぜい二〇メートル程度であったと認めるべきである(以下、この距離を「認知可能距離」といい、その始点を「認知可能地点」という。)。したがって、被告人が現実に被害者を人間(かもしれない)と認知したという<2>地点は、この認知可能地点を三ないし六メートル通過した地点になる。

2  衝突回避の可能性

認知可能地点以後は、運転者が危険を感じて、急制動等の急激な回避措置に出ることを期待することができる(なお、<2>’地点から認知可能地点までの間は被害者の存在を感知できるが、それだけでは、例えば対象の動静を十分注視することは期待できるとしても、急激な回避措置までは期待できない。)。

ところで、被告人は<2>地点で危険を感じて直ちに急ブレーキをかけたと供述し、スリップ痕はa地点からb地点まで印象されている。したがって、被告人車両の停止距離は、少なくとも、

空走距離(<2>~a)12・5m+制動距離(a~b)30・5m=43m

となる(当時の被告人車両の速度は時速約六五キロメートル(秒速約一八メートル)であるから、空走距離を一二・五メートルとしたときの空走時間は約〇・七秒となり、平均的な空走時間〇・六秒~〇・九秒と合致する。)。これは認知可能距離(一七・三ないし二〇メートル)を大きく上回る値であるから、被告人が認知可能地点で直ちに急ブレーキによる回避措置に出たとしても、かなりの速度で被害者に衝突した可能性が高く、結果回避可能性を肯定することはできない。

急ブレーキとともにハンドル操作による回避を行ったとしても同様である(本件のような場合、ハンドル操作のみによる回避措置を期待することはできず、要求すべきでもない。)。すなわち、被告人の供述によれば、衝突前に右にハンドルを切ったとのことであるが、スリップ痕は制動開始地点(a、c地点)からほぼ直進し、一五メートル程度先から若干右に軌道を変えたにとどまっている。ハンドル操作等に一定の時間を要すること、同時に急ブレーキがかかっていること、大型貨物自動車であることも考慮すると、認知可能地点で被告人が被害者を認知し、急ブレーキとともにハンドル操作をしたとしても、ハンドル操作の効果が現われないまま、ほぼ直進状態で被害者に衝突する可能性が高い。

以上のとおり、当時の被告人車両の速度を前提にすると、認知可能地点における衝突回避の可能性は認められない。被告人が被害者を認知するのが遅れたとしても、被告人に前方注視義務違反の過失は認められないことになる。

二  速度調節・減速義務違反について

1  結果回避が可能な速度

被告人が、認知可能地点で被害者を認知し、直ちに急ブレーキによる回避措置に出たとしても、これによって衝突を回避できるためには、次のとおり、被告人車両は時速約三六・〇キロメートルから約四二・一キロメートル以下、計算上確実に回避できる速度としては時速約三六・〇キロメートル以下でなければならない(数式及び摩擦係数は鑑定書の見解に従う。)。もっとも、右速度を若干上回る程度であれば、衝突しても死亡までは至らなかったとも考えられるが、被害者が高齢であることを考えると、接触程度でも転倒して死亡するという可能性は否定できないから、結果回避可能性を肯定するためには、衝突自体を回避できるだけの速度でなければならない。

空走距離=v×空走時間=0・7v(前記一参照)

制動距離=v2÷2gμ

v=速度(m/s)

g=重力加速度(9・8m/s2)

μ=摩擦係数(0・5~0・6、鑑定書の値を採用)

停止距離(17・3~20m)=制動距離+空走距離=v2÷2gμ+0.7v

v2+0・7v×2gμ-2gμ×(17・3~20)=0

上記式をもとに計算すると、

停止距離17・3m、μ=0・5のとき

v=10・0m/s=36・0km/h

同、μ=0・6のとき

v=10・7m/s=38・5km/h

停止距離20・0m、μ=0・5のとき

v=11・0m/s=39・6km/h

同、μ=0・6のとき

v=11・7m/s=42・1km/h

この値はハンドル操作の点を考慮しても同様である。すなわち、危険の察知からハンドル操作を経て効果が現われるまでの時間や、急ブレーキの状態でハンドル操作の効果が現われる程度は明らかでなく、かえって、前記一2のとおり、被告人車両は、ハンドルを右に切ったにもかかわらずかなり直進し、その後若干右に方向を換えただけである。結局、「急ブレーキとともにハンドル操作を行えば、前記速度を上回る速度であっても、被害者の側方を通過して衝突が回避できた」と認めるだけの根拠はない。

また、被告人が「黒い影」のような物を認めた<2>’地点で、アクセルからブレーキに足を移動させる行為に出ていれば、危険を察知した後のペダルの踏替(鑑定書によれば〇・一七から〇・二八秒)が省略されて空走距離が短くなり、その分、前記速度を若干上回る速度であっても、衝突が回避できたということも考えられないではない。しかし、<2>’地点で、運転者が右行為に出ることが当然に期待できるとはいえないので、この点は考慮しないこととする。

2  速度調節・減速義務の程度

一般に、自動車の運転者には、障害物の認知可能距離や道路の状況に応じて、自車の速度を、障害物を発見した際にブレーキ及びハンドルの操作等によって衝突を回避し安全に走行できる範囲に適宜調節し、ときには制限速度以下に減速して進行すべき注意義務がある。しかしながら、いかなる場合においても、衝突を回避できるだけの速度の調節すべき義務を課すことは高速交通手段としての自動車の性格上妥当でなく、当該状況において、そこに障害となりうる物(人間、自動車等)が存在する蓋然性や、それが自車と衝突するような行動をする蓋然性の程度によって、運転者に課される速度調節・減速義務の程度は限定されるというべきである。

これを本件についてみると、現場道路は車道総幅員一六・八メートルと比較的広い片側二車線の幹線道路で、幅一メートルの中央分離帯も設けられており、近くに横断歩道や交差点はなく、周囲の施設もまばらである。両側に歩道があって、横断禁止の規制はなく、B証人の証言によればときおり横断歩行者がいるとはいうものの、右のような道路において、事故のあった深夜午後一一時五〇分ころに、右のような道路を歩行者が横断してくるということは、運転者にとってかなり稀な事態であるといわざるを得ない。現に、現場道路の深夜の通常の流れについて、証人Bは制限速度五〇キロメートルを相当上回る時速八〇から一〇〇キロメートルと述べ、証人Cも時速六〇キロメートルから七〇キロメートルと述べており、そのようなこと自体は決して好ましいことではないものの、実際上、多くの運転者が、深夜の横断者は稀であることを前提に、横断者があるとしても、それ相応の注意を払って横断してくるであろうと考えて運転していることが窺われる。

また、当時、雨といっても格別強かった訳ではなく、被告人はフロントガラスに油膜が張ったと述べているものの、途中二回薬品を使って取り除いたとのことであるから、被告人車両からの視界が特段に悪かったとも認められない。

右のような現場道路及びその周囲の状況、本件事故の時間帯、当時の視界等を考慮すると、被告人に対し、制限速度である時速約五〇キロメートルないし若干それを下回る速度であればともかく、これを約一〇キロメートル、確実なところでは約一四キロメートル下回る速度に調節・減速すべき義務を課すことは、通常運転者に要求、期待されている注意と掛け離れた義務を課すものであって、相当でない。

被告人が制限速度を上回る時速約六五キロメートルで走行したことは、安全運転一般の見地からは非難されるべきである。しかし、右のとおり、被告人に対して衝突回避に必要な時速約四〇キロメートル、確実なところでは更に時速約三六キロメートルへの速度調節・減速義務を課すことはできず、言い換えれば、被告人が遵守すべき速度、例えば制限速度ないし若干それを下回る程度の速度で走行したとしても、衝突が回避できたとは認められないのであるから、被告人に速度調節・減速義務違反の過失を認めることはできない。

三  照射について

検察官は、当初の論告において、被告人が前照灯を上向きにしていれば、時速約六五キロメートルの停止距離を超える六〇メートル以上手前で被害者を発見することができたとし、被告人には前照灯を上向きにするなどして前方注視を十分に行わなかった過失があると主張した。しかし、右主張は前照灯を上向きにすべき注意義務を含むもので、本件訴因における前方不注視の内容と質的、場所的(訴因上は被害者の約四五メートル手前の<1>地点以降、論告上は被害者の六〇メートル以上手前)に異なることから、当裁判所は検察官に訴因と論告の整合性について釈明を求めた。その後、第九回公判において、あらためて当裁判所は検察官に前照灯を上向きにすべき注意義務の違反を訴因とするか否か釈明を求めたが、検察官はその旨の訴因変更の予定はない旨釈明し、被告人車両の速度についてのみ訴因変更を請求した。

確かに、当初の論告のとおり、前記照射実験に従うと、前照灯が上向きであれば、本件事故が回避できた可能性はある。しかしながら、本件の状況において、被告人に前照灯を上向きにして走行すべき注意義務のあることが明らかであるとはいえず、前記のような訴訟経過も考慮すると、右注意義務の違反を内容とする訴因変更を勧告ないし命令する必要はないと考える。

第五  結論

以上のとおり、被告人には前方注視義務違反及び速度調節、減速義務違反の過失があったとは認められず、本件公訴事実につき犯罪の証明はないので、刑事訴訟法三三六条により、無罪の言渡しをする。

(検察官 甲野太郎、弁護人 小谷野三郎、同長谷川直彦、同笠巻孝嗣 出席、求刑禁錮一年)

(裁判官 半田靖史)

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